モーラミャイン2日目。
朝食後、市場でたむろしているTukTukドライバーをつかまえて、郊外へ観光に行ってきました。
モーラミャインを南下しおよそ2時間。まずはタンビュッザヤのDeath Railway Museumへ。
ここは、映画「戦場にかける橋」の舞台となった泰緬鉄道のミャンマー側起点で、当時使用されていたC56 蒸気機関車が残されており。
Wikiによると、戦時中、ビルマ国鉄に編入された機関車12両のうちの1両で、C.0522は元々の車番はC56 56だったらしい。
1987年に廃車となり、1995年にミャンマー政府の観光振興事業の一環としてこの地に保存されているとのこと。
その後、連合軍の共同墓地(Thanbyuzayat War Cemetery)へ。
泰緬鉄道に駆り出されたであろう連合国軍側の捕虜の墓地です。
タンビュッザヤから東へ40分。チャイッカミの水中寺院(Yele Pagoda)
ドライバーの運ちゃんが一緒について回ってきたので、ちょっと鬱陶しかったけど。
タンビュッザヤに戻って、日本の建設部隊の慰霊碑(Mar Yin Mon Monastery)へ
Wikiによれば、「泰緬鉄道の建設には日本軍1万2000人、連合国の捕虜6万2000人(うち1万2619人が死亡)、募集で集まったタイ人数万(正確な数は不明)、ミャンマー人18万人(うち4万人が死亡)、マレーシア人(華人・印僑含む)8万人(うち4万2000人が死亡)、インドネシア人(華僑含む)4万5000人の労働者が使われた。建設現場の環境は劣悪で、食料不足からくる栄養失調とコレラやマラリアに罹患したり、工作機械不足と突貫工事による人海戦術のため死者が多かったという。こうした労働者の多大な犠牲のもと、当初5年は掛かると言われた建設が翌年、1943年10月には完成した」とのこと。
映画「戦場にかける橋」のイメージから、工事に直接かかわっていたのは連合国の捕虜だけかと思ってたけど、それ以上の地元住民を徴用して文字通り人柱にしてたのかーーー。第二次大戦中、日本の軍隊はアウンサン将軍とともにイギリスからの独立を勝ち取ったけれど、同時にミャンマーの人々にこういった犠牲を強いてたんだ、と思うと心が痛みました。
それにしてもこの隊長さんは、誰を慰霊するために建立したんだろ?
「緬側人柱之霊ヲ慰ム」と書いてあるので、日本兵だけでなく、鉄道建設に携わって死んでいった人すべてを慰霊しているんだろうな、きっと。
タンビュッザヤからモーラミャインへ戻る道を1時間少々。ムドン(ビルマの竪琴で捕虜収容所の舞台となった場所)を抜けて10分くらいのところにある巨大な寝仏、ウィンセントーヤへ。完成までまだかなりの年月を要すると言われているようです。
寝仏の内部はむき出しのコンクリートだったけど、多少、内装が進んでおり、天国と地獄を現した人形たちが蛍光灯の薄暗い明かりの中で埃をかぶってました。
うーん、寺院というよりさびれたテーマパークかな。
ガイドブックによると、今日巡った3か所に加えサッセ(ビーチ)を車で巡ると朝8時から夕方4時までかかる、と書いてあったけど、我が家は10時出発で昼飯抜きにも関わらず、モーラミャインに帰って来たのは17時ごろ。
各ポイントでそんなにゆっくりしたわけでもないのに、結構時間かかったなー。
と、とりあえずモーラミャインで押さえておくべきポイントを押さえた、という1日でした。
次回、モーラミャインに来たとしても行かないだろうなぁ。。。。
ウィンセントーヤからモーラミャインへ戻ること10分くらい。
Kyauktalon Taung , Yadana Taung
街道沿いにいきなり現れたこの岩山のてっぺんに寺院が。
今回はムリだけど、次回来たら登ってみたいー。
夕食は宿の近くをブラブラしながら。
宿のすぐ近くにモスクがあるせいか、イスラム系の住民が多い感じ。
モン族の州でタイとの国境が近いだけあって、イスラム系の人々はあまりいないのかな~って思っていたけど、うまく共存できているみたい。
イスラムの兄弟が切り盛りしているインド料理屋では、我が家が食べているなか、お店のオーナーである兄が自分の隣に座っていろいろと話に花を咲かせてきました。
うーん、イスラムの人はやっぱりどこにいてもフレンドリーだよなー。
我が家は観光スポットを巡るより、こうやって地元の人々とコミュニケーションとる方が好きなんだなーって改めて実感しました。
食後は、昨夜も行ったスイーツ屋さんへ。
モーラミャインの町中にはそれほど見どころはないけど、まあ、数日過ごすにはいいところです。